「心が敏感な人ほど豊かな人生を送れる」
マインドフィットセラピスト 脇山明
私はもともと、
「こんなことしている場合じゃない病」
という持病をもっていました。
「もっといいことが待っているはすだ!」とやっていることを投げ出して、他に鞍替えしてしまう。
そして気がつけば、はじめからやり直し。
放浪のバックパッカー、商社のサラリーマン、売れないバンドマン、フリーター、ニート、お寺の職員、etc...
職も転々として、仕事や私生活での挫折経験は数限りなし。
あくせく努力しても、いつも空回り。
生まれながらの敏感な心、
対人関係の苦手意識。
だれにも自分をさらけ出せず、仮面をかぶるしかなかった。
「本当の自分はこんなんじゃない!」と自分を責めながら、
どうしようもできない悪循環に囚われる日々。
自分らしく生きたいけれども、
何をするにもぎこちない、
そして中途半端。
なぜなんだろう。
その答えを心理療法や精神世界の領域に求めた日々。
時間をかけて心の闇と向き合うことで、
「心のモヤモヤ」の正体が少しずつ明らかになっていった。
そして、
だれでも「自分」を好きなれる、新しい人生を歩める、
そのことを身をもって確信できるようになった。
あなたにも、自分らしく、ラクな気持ちで人生を送ってほしい。
ほんの少し、だれかに後押しをしてもらうだけで、人生を変えられることを伝えたい。
一人で考え込んでも、大切な時間をムダにするだけだと気づいてほしい。
自分の可能性に気づくのは、
いつからでもおそくはありません。
この私のように。
当ルームには、次のような方が多数、訪れてくださいます。
・自分らしく生きたいけど、できない
・「生きづらさ」の原因がわからないけれど、毎日が苦しい
・ずっと心に「もやもや」したものを持っている
・HSP、アダルトチルドレンの気質があって、日常生活が普通に送れない
・人との距離感がわからず、対人関係で苦労している
このような悩みを解決し、人生を好転させるためには、
あなたとマインドフィットセラピストである私との相性も深く関わってきます。
すこし長い文になりますが、ご興味がありましたら、私のプロフィールを読んでみてくださいね。
生まれながらの敏感気質
両親、姉、兄の家族のもと、末っ子として生まれる。
幼少期、小学生時代、見た目は活発でにぎやかな子どもだった。
しかし内面は感受性がとても強く、
時々得体のしれない恐怖感に囚われることがよくあった。
たとえば、
「人は死んだらどうなるんだろう、生まれる前はどこにいたんだろう?」
そんな、だれも答えを出せないようなことを真剣に悩んで、おびえていた。
一方で、
理由もなく「こんな世の中はおかしい」という、社会批判めいた感情も持っていた。
ものごとを深刻に考えすぎる、
ちょっとナマイキな子どもだった。
末っ子としての役割
父は仕事に没頭して家庭はあまり省みず、母はこまやかで心配性の性格。
両親達にとって、
末っ子の私の笑顔やよろこぶ姿は「幸せの証し」だったようだ。
自分がよろこぶと、親もよろこぶ。
自分がむじゃきに夢を語れば、親は目を細める、のを感じ取っていた。
いつのまにか、自分の役目は、親を喜ばせること、と考えるようになった。
いっぽう、姉と兄は社交的でスポーツ好き。
甘えん坊役は弟にまかせて親離れも早く、
末っ子からみると、自由に見えてうらやましい面もあった。
見た目は活発で、我が家のアイドル。
でも心には得体のしれない不安と恐怖感。
そのギャップを抱えたまま成長していった。
家出を計画するが、、
小学校5年、6年になると、どこからともなく「このままではいけない」という思いが湧いてきた。
なぜか、このままでは自分がだめになる、という気持ちが高まってきた。
ふと、家を出て放浪の旅に出たくなった。
しかし家族を悲しませたくない、という気持ちから、計画は断念。
「このままではいけない」という思いに無理やりフタをすることを選んだ。
今ふりかえれば、
何十年にわたって繰り返される「こんなことしている場合じゃない病」がはじめて芽生えたのがこの時だった。
何を悩んでいるのか自分でもわからなかった10代の日々
「こんなことしている場合じゃない」とこみ上げてくる心の声を無視しながら、中学時代を過ごす。
「今の自分は本当の自分じゃないんだ」と無理やりに自分に言い聞かせるうちに、
何ごとにも無気力になっていった。
人間関係にも臆病になった。
人に対して自分をさらけ出すことができず、ブレーキをかける癖がついてしまった。
そして、そういう自分をだめだ、だめだと思いながら、
どうしようもできない悪循環に囚われる日々。
「普通」の仮面をつけていたけれど
ただ、不登校やひきこもりなど、だれの目にもわかるようなSOSの状態にはならなかった。
表向きは、学校でも、家でもソツなく接していた(つもり)。
ただ、心の中では、毎日が辛く苦しかった。
得体の知れない「心の闇」を表に出してはいけない、という自制があまりに強く、
胸の奥にしまい込んだままだった。
むしろ、何かの症状が出ていれば、それがきっかけになり変化が起きたかもしれない。
何を悩んでいるのか、自分でもわからないので、誰にも打ち明けることができなかった。
高校でも同じような日々が続いた。
何にもやる気が起きず、成績もクラスで下から5本指に入るぐらいが定位置。
大学にはすすんだが、引き続きやる気なしのボーっとした日々。
必修科目だけはイヤイヤ出席して、クラスメートともほとんど声を交わさず、交流を避けていた。
卒業するまで構内の学生食堂には一度も足を踏み入れたことはなかった。
昼時には近所の住宅街の公園で一人、パンをかじっていた。
そんな頃、ちょっとしたきっかけから、別の大学の音楽サークルに誘われる。
音楽というクッションが幸いして、すこしは気楽につきあえる友達ができた。
が、そこからジダラクな生活が始まる。
放蕩生活がたたって留年決定⇒海外放浪へ
他大学に入り浸っていたツケが廻って来て、2回生を留年することに。
すると「こんなことしている場合じゃない病」がムクムクと頭をもたげてきた。
この時だけは「一年間自由な時間ができた!」と前向きにとらえ、
子供の頃の放浪へのあこがれを実現しようと、あわててバイトのはしごで旅費をかせぎ、とりあえず日本を脱出。
行き先を決めず、バックパックを背に北米、中米、ヨーロッパ、中東、アフリカ、インド、東南アジアなど23ヶ国を巡った。
旅先で感じたのは、どの国の人も思ったことはストレートに表現しているなあ、ということ。
外国から見ると、日本人の気の遣い方はむしろ特殊なんだ、と気づいた。
言葉がろくに通じなくても、人とのコミュニケーションにストレスを感じない自分がいた。
これは意外な発見だった。
旅の日々は、心の葛藤が薄まった時間でもあったが、
帰国する飛行機の窓から日本の街のスモッグが見えた時、
「またあの中に入って、窮屈な思いをしなければならないんだ」とうんざりした。
やっぱりなじめなかった新卒時代
よく単位をもらえたなあと思うぐらいの出席日数だったが、
どうにか大学を卒業。
バブル時代の雰囲気に流されるように都内の半導体商社に入社。
当時、新卒社員は好待遇で迎えられた。
ただ、まわりの同期はすぐ打ち解けて仲良くやっているのに、そんな中にポツンと取り残された感覚で日々を送っていた。
対人関係に敏感すぎる自分にとって、組織の中での居づらさは相当なものだった。
すると、すかさず「こんなことしている場合じゃない病」が首をもたげてきた。
「こんなことをしていられない、今やるべきことは自己表現だ、音楽だ!」と、
新人研修も終わらないうちに勝手に会社を『卒業』し、ミュージシャンを目指すという暴挙に。
しかし決心はしてみたものの、ツテは何もなし。
とりあえず家賃2万3千円のアパートで独り暮らしへ。
ある日運よく、あるバンドのメンバー募集があり、「バンドマン」の道が開けた。
目立ちたくなかった?バンドマン時代
曲がりなりにも「バンドマン」になれたが、
演奏はダンスホール、クラブ、キャバレー、イベントの地方巡業など、いわゆる「ドサ回り」がほとんど。
しかし、バンド自体はメジャーデビューの夢を持っていた。
ちなみに、「バンド」や「ミュージシャン」というと、目立ちたがり屋で派手なイメージがあるが、
めざしていたのは、いわゆる「スタジオミュージシャン」。
音がすべて、という気持ちだった。よく言えば職人気質。
ルックスやパフォーマンス的なことは一切興味なし。
なので一応「ショービジネス」の世界で働いている自分に、違和感を感じながら過ごしていた。
そんな生活が2年近く続いたが、いっこうにバンドは売れる気配なし。
そんな時、また「こんなことをしている場合じゃない病」が再燃した。
とりあえず昼夜逆転の生活から離れるため、バンドをやめて、フリーター生活へ。
バイトを転々と替えながら、他のバンドもいくつか渡り歩いた。
そうこうしているうちに、普通の勤め人になろうと考え直し、こころざしをあっさりと捨てる。
「ミュージシャンを目指していたフリをして、実はいやなことから逃げていたんだ」とますます自己嫌悪に陥ってしまう。
ふたたびのサラリーマン生活も挫折
気を取り直して、ひさしぶりに会社勤め。
業務用清掃機械の営業マンとして入社。
苦しみながらも、職場に溶け込もうと努力はしてみた。
しかし、そこは一日16時間労働が当たり前のブラック企業。
肉体労働もありのハードな毎日だった。
夜中に食事中、気がついたら箸とお茶碗を握りしめながら、床に倒れ込んで寝ていたこともあった。
さすがにそんな生活は気力と体力が続かない。
結局、半年たらずで退職。
「やっぱり社会は厳しい」と落ち込む。
続かなかったのはひどい労働環境のせいだったが、「自分は社会に適応できない」というヘンな信念を持ち続けていた。
ニート状態の悶々とした日々
とりあえず実家に逃げ込む。
親に心配と迷惑ばかりかけている自分に、自己否定の感情はますます強くなるばかり。
やる気も失せて、引きこもりになりそうな気持にムチ打って、就職活動をする。
「自分は何がしたいんだろう?」
「これからもずっと中途半端なことばかり繰り返して年を取っていくのだろうか」
と自問自答しながら落ち込んでいく日々が続いた。
今度こそ「適職」に?
悩みながら過ごした半年後、
なんとか採用されたのが「越中富山の置き薬」の仕事。
初めは不安だったが、
1人での外回り営業が性に合っていたのか、続けることができた。
職場の人間関係はあいかわらず苦手だったが、
訪問先のお客さんには親身に向き合える自分を発見できた。
たまに来る「お薬屋さん」には、素の顔を見せる人も多く、
時おり悩みごとを聴くこともあった。
だれでも人知れず悩んでいたり、コンプレックスを持っているものなんだあ、と気づくきっかけになった。
中には深刻な相談もあり、一緒に考えたり、解決への道が開けて喜ぶこともあった。
それまでの仕事では、自意識過剰、他人からどう見られているかばかり気にしていたのだが、
人の話を聴く楽しさと奥深さに気づけたのが、この仕事を通してだった。
あいかわらず生きづらさは抱えながらも、何とか仕事はがんばって、営業所を任される立場に。
しかし、
そろそろ営業の前線から本社に、という声が聞こえ始めた時、
おなじみの「こんなことをしている場合じゃない病」がまた現れた。
「会社のために働くよりも、すべきことがあるんじゃないか。もっと精神的に価値のある仕事をしたい」という気持ちが湧いてきた。
今までの転職と比べると、すこしは前向きというか、かっこいい(?)動機に変わっていた。
心機一転、お寺の職員へ
今度はガラッと職種が変わって、
バンドマン時代から心の拠り所にしていた寺院に職員として奉職。
(お坊さんではないが、仏道に帰依する気持ちだった)
信徒さんの世話をはじめ、定例行事の準備・運営、地方支部の運営マネージメント、運命学担当部署の仕事(仏教にも古くから伝わる占星術があるのです)、アンテナショップ的占いサロンの責任者、窓口の受付、寺用車の運転手、その他、
質・量ともにハードな仕事をこなす。
途中から、運命学を用いた悩みごと相談を数多く受けるようになる。
そこには年代も職業もさまざまな人達の人生の悩み、理屈や道理では割り切れない思いが溢れていた。
そして人の意識の奥深さや、大きな可能性にも気づかされた。
相談件数は1000件をかるく超えた。
生きづらさに向き合うためにカウンセリングを受ける
悩みごと相談を受ける中で、問題が解決に向かい、相談者が自分らしさを取り戻していく場面に、たびたび立ち会えた。
それに感化されたのだろうか、
ある日、長年抱えてきた自分の「生きづらさ」にも、ちゃんと向き合ってみようか、という気持ちが湧いてきた。
「生きづらさ」に向き合うには、何をしたらいいか、
その始めの一歩として「心理カウンセリングを受けてみよう」と思い立った。
専門家ならば、正体のわからない「心の闇」に光を当ててくれるかもしれない。
それはもちろん、はじめての経験。
今までだれにも話したことのなかったことを、言葉に出すのはかなり勇気が要った。
拍子抜けだった?カウンセリング体験
はじめて訪ねた心理カウンセラーは、
話をひたすら聞いて本人が答えを見つけるのを一緒に待つ、というスタイルだった。
解決法を教えてくれるわけでもなく、
じつをいうと、かなり拍子抜けしてしまった。
それでも、
つかみどころのない生きづらさや心の闇の話を、真剣に聴いて共感してくれた。
これは大きなおどろきだった。
それだけで救われる思いだった。
「心理カウンセラーのもとには、うまく説明できない心の闇を打ち明けにやってくる人が多いのかもしれない、
ひょっとしたら、自分のような「心の闇」を抱えている人は、じつは沢山いるのでは」と考えるようになった。
天職に気づく
やがて、お寺に勤めて十数年が経った頃、
またまたまた『こんなことしている場合じゃない病』が出てきた。
しかし今回は今までとは違っていた。
培ってきた相談の経験を活かして、さらに深めたい、という思いが強くなる。
「心」を扱う仕事にもっとかかわりたい、
もっと自由な立場で、現代人に直接響く方法で、
一人ひとりの悩みをサポートしたい、という気持ちが膨らんできた。
想像を巡らすうちに「心理カウンセラー」という職業が見えてきた。
ただ、迷いもあった。
「心の葛藤はずっと経験してきたけれど、心の病と診断されたことはない。
心理療法を学んできたけれども、学校で心理学を専攻したわけでもない。
こんな自分に話しを聴いてもらいたい人なんているだろうか?」
でも、こうも考えた。
「表向きは普通にしていても、ほとんどの人が何かしら生きづらさを抱えている。
そして生きづらさを放置して、表面上は忘れてしまっている。
そのせいで自分の良さを活かせていない人達は、数限りなくいる。
そんな人たちの役に立てないだろうか。
むしろ、生きづらさを隠し続けてきた自分だから、気持ちを共感できる人は多いかもしれない。
いや、それどころか、たくさんの人達が待っていてくれるはずだ。」
これが最後の「こんなことしている場合じゃない病」の発症となった。
これこそがやりたい仕事、と確信を持てた時、この病気を完治できたのだった。
そして、よりよく生きたい人の「心の専属トレーナー」になる、と決心を固める。
寺院を退職後、節目として「四国霊場八十八ヶ所歩き遍路」を行う。
もし心理療法に出会っていなかったら
心理学・心理療法の勉強を始めた頃から、
自分の人生の行動パターンをたびたび振り返るようになった。
そこでわかったのは、
職業や環境をいくら変えても「生きづらさ」や心の深い所にある「つっかえ棒」を外さなければ本当の充実感は得られない、ということだった。
この実感を得て、人生のトビラが開けた思いだった。
もし、心理学や心理療法に出会っていなかったら、、「今頃、どんな気持ちで生きていただろう」と、
おそろしくなってしまう。
そして、「生きづらさ」の種類はちがっても、
心の中の適切なポイントを調整していくことによって、確実に変わっていける、ということを発見した。
それが「エモーションフィットセラピー」の原型になっている。
セラピールームを開設
市川市新田(当時)に『マインドセラピーわきやま』を開設。
悩める人、自分を成長させたい人を援助することに専念する。
そして現在に至る。
・努力しているつもりが、どんどん間違った方向へ行ってしまう。
・成功する自分がイメージできない。
・後悔してもしようがないことをクヨクヨと思い出してしまう。
・人の顔色ばかりが気になって、自分を後回しにしてしまう。
どれも昔の私のことなのですが、
当ルームには同じような想いを持つ方が、たくさんお見えになります。
そんな皆さんにはいつも、
「心が敏感な人ほど、豊かな人生を送れます!」とお伝えしています。
皆さん、はじめはキョトンとしていますが、セッションがすすむうちに、その意味をわかっていただくようになります。
セッションによって心のモヤモヤが晴れてくると、
自分の持っている無限の可能性に気づき始めるのです。
あとはその可能性を信じて、豊かな人生の設計図を作っていくだけです。
私は、自分を好きになって豊かな人生を送れるようになるまでに、長い時間を費やしてきました。
ただ、あなたはそんな必要はありません。
当ルームにお越しいただいて、心に秘めていた想いを吐き出すだけで、
あなたの豊かな人生を手に入れるミッションが始まります。
もうそろそろ、ワクワクしながら自分の人生を生きる生活にシフトしませんか?
そのお手伝いができることをうれしく思っています。
【私のミッション】
『マインドセラピーわきやま』を訪れた方の心の悩みを解決する、というは第一のミッション。
そして、生まれ変わったその方を見て、周囲の人が幸せの波動を感じる。
そうやって、幸せの連鎖反応がどこまでも広がっていく。
そして、困難な時代にあっても、活き活きと生きる人が社会に増え続けていく。
そのお手伝いをさせていただくこと、これが真のミッションと考えています。
いわば私はあなたに、これからの時代をしなやかに輝いて生きる『先駆け』になっていただきたいのです。
オーバーでしょうか?
でも、私はけっこう本気でそう思っています。
「えっ、私が?、、、まさか」とおっしゃるかもしれません。
でも私は本当に、本気で考えています。
いつでもあなたをお待ちしています。
《まだまだこれからが本番の人生です。そして、これからもいろいろな方との出会いを楽しみにしています。》
【趣味】
晩酌、自転車に乗ること、へミシンク、田舎の町を歩くこと、時々旅に出ること…etc.
【習慣にしていること】
・アーシング(裸足で地面に立つこと)
・サンゲイジング(朝日、夕日をながめること)
【私の夢】
・囲炉裏のある家で暮らすこと
【『謙虚すぎるセラピスト』とも呼ばれている、私の日常】
「満員電車で押されると、つい自分のところでふんばってしまいます」
「レジの行列で並んでいると、いつも私の前に横切る道ができます」
「お店で注文する時、一声だけでは店員さんが気づいてくれません」
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こういう私なので、人の想いを、正直に真正面から受け止めることしかできません。
だから、なおさら人の心に触れる仕事にコミットしたかったのです。