あわただしく着替えて校庭へ、
頭には紅白帽、白線のスタートラインに横一列に並ぶ、、、
息をのんで、「スタート!」の合図、
となりと足をもつらせながら走り出す、、、。
「出たくないなあ」、「仮病で休んじゃおうか、、」、、今でも思い出します。
走る体育の授業の前日は、憂鬱になったり、本当にお腹が痛くなってきたり、、。
かくいう私、セラピストも、走ることは苦手で、駆けっこの授業はいやでしようがありませんでした。
今思いだしても、そこまで?というぐらいにいやでしたね。恐怖心さえ感じていたと思います。
「もやしっ子」だったので、走るのが苦しかったからでしょう。
でもよく考えてみると、本当にそれだけだった?
あそこまでいやな気持ちの原因は、何か他にも理由があったような気がしてなりません。子供の時は単に「いやだ」と思っていただけでしたが、、、本当は何が嫌だったんだろうか?
ところで話は変わりますが、あなたは子供の頃、広い野原や芝生に立ったことはありませんでしたか?
そういう記憶がすぐに思い当たらない方も、子供のあなたになって、目を閉じて想像してみてください。
見渡すかぎり広がる緑のじゅうたん、
そして青い空、
お日様がサンサンと輝くいい天気、
綿菓子のような雲がふわふわ浮いています。
あなたはそこで思いっきり遊ぶことができます。何もしても自由です。
さあ、あなたは何をしましたか?
何よりもさきに、力いっぱい緑の草の上を駆け回りませんでしたか?
その時、駆け回っているあなたは、とても活動的です。
心はウキウキ、少しもじっとしていられない、本当に楽しさがこみあげてきます。
そんな思い出はありませんか?
子供のあなたは、疲れ果てるまで駆けっこをして、飛びはねたのではないでしょうか。
(大人のあなただったら、真っ先にゴロンと仰向けに寝そべって「癒されるーっ!」と言うかもしませんね)
でも、その一方で、体育の授業の駆けっことなると嫌で嫌でしょうがなかった、あなた。
同じ「走る」だけなのに、なぜ、こうも違うんだろうと思いませんか?
その違いをよく考えてみましょう。
気づきましたか?
そう、本当のあなたは「駆けっこ」がきらいではないのです。本当は駆けることが楽しいんです。
でも、大好きなはずの駆けっこが、一列に並ばされてヨーイドン、争いたくないのに順位を競わされて、ゼーゼー言いながらも無理やり走らせられる。
強制的に走らされることが嫌だから、授業の駆けっこがきらいになったのではないでしょうか?
それは『駆けっこ』でなくても、同じです。
だれでも自分の意志と関係なく強制される時、好きなことでもきらいになるのです。
「この世の中、自由はまかり通らない」と大人のあなたはわかっています。
第一、皆が何でもかんでもやりたい放題では、社会が成り立ちませんよね。
でも、今、あなたにとって一番大切なのは、私は本当は『駆けっこ』が好き、という真実を忘れないことです。
『本当は好き』の気持ちをずっと我慢しているうちに、自分のことを誤解して「私は駆けっこがきらい」と思い込みやすいのです。
それはあなただけではありません。そういう習性を人間はだれでも持っています。
『本当は○○が好きな自分』を思い出すことで、窮屈だった心が癒されます。
本当の自分を取り戻すきっかけにもなります。
そうやって、知らぬ間に自分でフタをしてきた「本当に好きなこと」を探すために、今まであなたが辿ってきた人生を振り返ってみてはどうでしょうか。
ただ、いやな記憶、つらい記憶の中から、本当の想いを探し出すのは、難しいことでもあります。
そんな時はセラピストが、あなたのペースでじっくりとお手伝いをさせていただきます。
注)駆けっこの授業が得意だった方は? ⇒駆けっこ以外で思い当たることがあれば、あてはめて考えてみてくださいね。
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