空海の足跡を辿ってきた中で、気がついたことがある。
それは、空海の視点は「今」に集中していた、ということだ。
空海はさまざまな奇蹟や、人々を益することを行った。
神秘的な奇瑞を見せたり、病気治しを行ったり、薬を作って分け与えたり、水の出ない土地に泉を湧かせたり、難しい土木工事を指揮したり、寺院の建設を指南したり、多くの本尊を自ら彫り刻んだり、と数えきれないほどの奇蹟を示し、偉業をされた。
そして、そのいずれもが、今、生きている人々が益するような行動だったことがわかる。
言ってみれば、現世に全精力を傾けていたような印象がある。
現在の仏教では、死者の菩提を弔ったり、先祖の供養をするということが、一つの重要な柱になっている。
真言宗でも、もちろんそうだろう。
遍路で廻っている人の中にも、亡き家族や配偶者の供養のためにお遍路をしている方が少なからずいらっしゃる。
ただ、空海ゆかりの聖地を廻ってみても、空海が死者を弔ったり、先祖供養の法要を行ったという記録に会うことはできなかった。
これはどういうことだろう。
神や仏を感得するような能力を以ってすれば、人が亡くなった後に残した念や、いわゆる成仏していない霊を察知することは決して難しいことではないのでは?と思うが。
空海はそこに焦点を合わせてはいなかったのではないか。
空海は今、目の前にある現実に対して全力を尽くし、そこから仏になる道を見出そうとしたのではないだろうか。
今を生きていくのに、大切なこと、つまり生きている今を最大限に生かすことを眼目に置いている、ということだ。
これが「現世成仏」という意味につながるのかもしれない。
そして、空海は、人間を「仏」にまで高めるメソッドの確立を目論んでいたのではないだろうか、とも考えた。
それほど、空海の足跡は、幅広く、奥深い。