晴れてはいないが、昨日からの雨はあがっていた。
5時35分
宿を出て奥の院の御廟に向かう。
杉の木立の突端を隠すように、霧がかかっていた。
奥の院に向けて歩く。参道と並行して小川が流れている。
参道を急ぐ。
たどり着いた護摩堂の前には、すでに数人が立って待っていた。
これから弘法大師の朝の御膳をお供えする儀式が始まる。
しばらく待っていると、金色の衣に身を包んだ僧侶が3人、姿を現した。
簡単な勤行をした後、木製の大きな四角い箱に棒が付いたものを担ぎ、奥の院の方へと向かっていく。
僧侶の雪駄の足音と、鳥のさえずる声だけが、あたりに響いている。
ここから先は聖域のため、写真は撮れない。
僧侶たちの後について、奥の院に通じる橋を渡る。
正面の「灯籠堂」と呼ばれる大きな堂に僧侶たちが入っていった。つづいて参拝者も中に入る。
靴を脱いで外陣に府座することができた。
全員が静かに僧侶の所作を見守る。
木の箱から朝の御膳が取り出され、供えられた。
普通はご本尊が鎮座する内陣正面はガラスになっており、その向こうにある空海の御廟を拝する形になっている。
この灯籠堂での法要はすべて、弘法大師に祈りを捧げるようになっているのだ。
灯籠堂の名の通り、横に広く、薄暗い本堂には、多くの人から奉納された灯籠の灯りが瞬いている。
静謐な空気の中、導師を中心に、5~6名ほどの僧侶が内陣の両脇に並び、朝の法要が始まる。
美しい音階を唄うように、読経が始まった。
時にはソロで、それ以外は一糸乱れぬと言ってよいほど素晴らしく呼吸の合った声で、高らかに僧侶たちが経を唱えていく。
その中で、中央の導師は黙々と所作をすすめていく。
何かがそこに来ている、という圧倒的な存在感とでもいうのだろうか?
言葉では表現できない重みをひしひしと感じる。
付座していた人たちは、日本人、外国人を問わず、同じ感覚を味わっていただろう。
まさにこれが、「霊気」というのかもしれない。
肌で感じる、というのはこういうことだ。
普段の生活では、安易に「霊」なんていう言葉を使うと訝しがられるが、この場では、まさに「霊気」が堂内全体を包んでいるのだ。
しかもこの上ない、神々しい霊気がここまで伝わってくる感じだ。
かなり長い時間の修法が終了した。
読経が終わった瞬間、外で鳴く鳥たちの声が耳によみがえってきた。
続いて僧侶たちが灯籠堂の廻廊を回り、御廟の前で、般若心経を唱えて、去っていった。
法要中にいつのまにか十数名に増えていた参拝者たちは、その僧侶たちの動きに続いて、御廟に面した回廊を渡り、順路を進んでいく。
一通り、堂内の巡拝が済んだあと、もう一度、御廟の前に戻って、八十八ヶ所遍路の無魔行満をご報告するため、勤行させていただいた。
この御廟へのお参りで、真に遍路が完結することになる。
早朝の御廟前でのお参りは、感極まるものがあった。
自分の力だけでは、ここまでたどり着けなかった、という思いがあふれてきた。
参拝後、ちょうど納経所が開く時間になったので、納経帳に最後1ページだけ残されていた高野山奥の院のところにご宝印をいただく。
一度、宿に戻って朝食をとるため、奥の院に通じる杉木立の中の墓地を下りていく。
おびただしい数のお墓や供養塔が延々と続いている。
皇族、戦国武将、文化人、各地方の旧家・名家、戦争犠牲者・戦没者、企業など、たくさんの御霊が空海の御廟の傍で眠っている。
その多くが苔むしていて、長い時の経過を感じさせる。
杉の木々と一体化していて、深みのある風景を作っている。
墓地で感動する、というめずらしい体験をした後、宿で朝食をとって、奥の院以外の高野山のお寺を参拝することにする。
小雨が降り出してきた。
雨の中の参拝も、またよさそうだ。
まず、高野山の中心部にある、
金剛峯寺に参拝。
もともと金剛峯寺とは、高野山全体の寺院の総称だったそうだが、明治以降、この豊臣秀吉が建立した青巖寺というお寺に真言宗管長が住まわれるようになったため、ここを金剛峯寺と呼ぶようになったそうだ。
高野山の歴史を書き出すと長くなるので、くわしくは調べていただきたい。
山門をくぐって境内に入り、本堂の中を見ると、なぜか、衣を何もつけていない白衣だけの僧侶が何人も横切った。
そんな光景は見たことがない。
何事か?と思ったが、わからないまま、拝観料を払って、中へ入る。
立派な内部を見学して廊下を歩いていると、襖で仕切られた向こう側から大勢の読経に声がした。
「・・・ソンデイソワカ・・・」と聞こえた。
これは発音はすこし違うが、自分が歩きながらいつも唱えていた、凖胝観音のご真言ではないか?
近づいてみると、廊下に人だかりが出来ていた。
内部をのぞき込むと、大勢の僧侶がお経を唱えている。
見守っていると、どうやら新しい僧侶の得度式(お坊さんになる儀式)のようだ。
20人の僧侶が誕生したらしい。
さきほどの白衣だけの姿は、これから僧侶の着物を身に着ける直前の準備中の姿だったのだ。
廊下に面した、20畳弱の間に、新僧侶のご家族らしい人たちが式を見守っていた。
ふと、その間の説明書きを見ると、「柳の間」といって、豊臣秀吉を継いで2代目関白となった豊臣秀次が、この柳の間で自害された、と書いてあった。
びっくり。
大きな石庭もあった。この岩は四国から霊岩を取り寄せ、白砂は京都から運んだそうだ。
お茶をいただける大広間では、尼僧さんが説法をされていた。聴衆はごらんの通り。
撮影してもいいという、大師像と両部曼荼羅。
空海に真言密教を伝授された恵果阿闍梨の像もあった。
順路の最後の方は、台所になっていた。
この3つの竈で2000人分のご飯が炊けたそうだ。
次に霊宝館へ。
ここには貴重な仏像や宝物などが展示されている。もちろん撮影はできない。
一つ一つは説明できないが、全体を通して、本物を実際に見ると、その迫力が直に伝わってくるものだと思った。
今でこそ、芸術作品を作るのにも、多かれ少なかれ機械や近代的な技術を使っているとおもうが、昔はそんなことはできなかった。
本当に作者の経験と身につけた力だけで、これだけのものを作ったことに、あらためて脱帽した。
しかし、だからこそ、昔の美術品、仏像は、観る人に感動を与えてくれるのではないだろうか。
沢山ある展示の中で、空海の直筆による人名リスト(空海が灌頂を授けた人の記録)が展示されていた。
空海というと、達筆の代名詞みたいなイメージだが、これに限っては、とてもラフなメモ書き?のように、素人には見えてしまった。
そのリストには天台宗祖の最澄の名前もあった。
今度は、
●高野山の中心部である檀上伽藍へ。
ここには重要な伽藍が集まっている。
まずは金堂を参拝。
年間を通して、主な行事はほとんどがここで行われるらしい。
空海の在世当時は講堂といって、説法する場だったそうだ。
ご本尊は薬師如来。
その周りに諸仏が配置されている。
内陣の両側には、左右から向かい合うように金剛界曼荼羅、胎蔵界曼荼羅が掲げられている。
なんと、その曼荼羅の中心部は平清盛が自ら額を割って流した血を使って描いたという、いわくつきの曼荼羅だ。
外観も威風堂々としていて、かなり離れなければ、カメラに収めることができない。
金堂の西側には、空海が高野山に寺院を建立する以前からいらっしゃった神を祀る神社があった。
丹生明神・高野明神・総社十二皇子および百二十伴神を祀り、御社と呼ばれている。
神々の導きにより、空海はこの地に高野山を建立されたと伝えられている。
神仏を等しく敬う空海の考えはここにも表れていた。
そして、檀上伽藍で一番目に付く巨大な塔が根本大塔。
その内部は「立体の曼荼羅」といわれており、中心には大日如来が座し、その周りを胎蔵界曼荼羅の中心部と同じ諸菩薩が取り囲んでいる。
その大きさから、まるで仏の世界に小さな人間がひょっこりお邪魔しているような感覚だ。
周囲の柱にも、曼荼羅の配置と同じく諸尊が描かれている。
空海は、中心部だけでなく、曼荼羅のすべてを伽藍で立体化しようとしていた、と云われているらしい。
そして、
檀上伽藍には多くのお堂があるが、その一つに、
准胝堂があった。
今回の遍路の道すがら、歩きながらいつも唱えてきたのは、
空海のご尊号「南無大師遍照金剛」、
尊敬するある開祖の真言、
そして、このお堂に祀られている凖胝観音の真言の3つだった。
この遍路のゴールである高野山で、しかもこの旅ではじめて凖胝観音を祀るお堂に出会うとは、何というご縁だろう。
とても意義深いことだ。
質素だが、しっかりとしたお堂だ。
空海がこの高野山で僧侶に得度を授ける際、准胝観音をご本尊として得度式を行うために御自ら、像を彫って祀ったと云われる。
それで、さっきの得度式で、凖胝観音のご真言が聞こえてきたことの合点がいった。
堂の扉の前に上がり、心を込めて3つの真言を唱える。
そして八十八ヶ所めぐりの無魔行満を感謝申し上げた。
まさにこの3つの真言に守られた遍路旅といってよかっただろう。
たくさんのお手配やコーディネートをいただけたのも、まさにこれらの真言の功徳だったかもしれない。
この准胝堂で、高野山の参拝を一通り終えた。
午後4時ごろに宿に戻る。
明日はようやく千葉の自宅に帰る。
ところで今朝、宿の女将さんからすごいことを聞いた。
奥の院の御廟は、夜中でもいつでもお参りできるそうだ。
そこで、夜明け前の静寂に包まれた時間にお参りして、そこで御廟のバイブレーションに触れようと思う。
そんなことができるとは思わなかった。
空海が今でも生きていると云う御廟の前で過ごす時間はどんなに貴重であろう。
明日は早く起きて参拝しようと思う。
そのために早く寝ようと思う。
今日のブログを順調にまとめられたらだが。
じつは毎晩、けっこう苦労しているんです。