(71番 弥谷寺 ⇒ 75番 善通寺)
薄雲がかかっている。太陽の輪郭がやわらかく浮かんできた。
7時40分出発。
菅直人さんがこの宿に泊まった時の写真。
旧街道を歩き始めて約10分後、
後ろから「お遍路さん!」と呼び止められた。
「ちょっと待ってて」と男性が家の中に入っていった。
少し待っていると、お手製のきなこと青のりのぼたもちをバックに入れて渡してくださった。
家の中からその男性のお母さんらしき方が、「気をつけて」と挨拶をされた。
ありがたくいただく。
その後、歩いていると、お礼で渡した納め札が2枚重なっていたと言って、わざわざ自転車で追いかけて持ってきてくれた。
とても律儀な行動に、感動した。
歩いていても、なぜか讃岐の国はのびのびとしている感じがする。なぜだろう。
宿でいただいた手書きの地図をもとに、七十一番 弥谷寺へ向かう。
まだ朝だが、気温は結構高く感じる。
8時50分ごろ、
お寺の位置する山の麓に到着。
俳句茶屋という所でリュックを預かってもらうと良い、と宿の女将さんに言われたが、今は改修中で閉鎖されていた。
ここから5百段以上の石段を上る。
●七十一番 弥谷寺に到着。
途中、鐘撞堂があったので、はじめて鐘をついてみる。
鐘楼というのは、どこのお寺でも、参拝した人は誰でもついていいそうだ。
1、2の、3でつく。ご~~~ん。
いい音色がお寺に響き渡った。
500段以上の石段を登り切って、本堂に着く。
ご本尊は十一面観音。
昨日の僧侶がお経をあげていた。理趣経を唱えていた。
本堂への石段の右側の壁に摩崖仏が3体彫られていた。
中央は、お釈迦様の瞑想のお姿だ。
説明によると、平安時代から鎌倉時代にかけてのものだと見られ、あるいは弘法大師の作、とも云われている、との事だった。
この釈尊のお顔は、本当に静寂の境地に入ったことを表現されているように見えた。
もしかすると本当に空海が彫られたのかもしれない。
とても印象に残るお顔だった。
四国へ来て、はじめて釈尊のご尊顔を拝したような気持ちだ。
続いて本堂より少し下にある、大師堂に参拝する。
ここは靴を脱いで、御堂の中に入る。
奥の間が洞窟につながっており、空海が、幼名「真魚」と言うお名前だった頃、この洞窟の中で勉学にはげんだと云われている。
その場所が、この弥栄寺の奥の院として祀られている。
洞窟の中央には空海の父君、母君そしてご自身の像が祀ってあり、右には丸い窓が開いていて「明星の窓」と言われている。
この窓から早暁の時刻、明星を拝していた、と伝わっている。
幼少の頃から、暁の明星を拝む求聞持法につながる修練をされていたのだろうか。
薄暗く、燈明の灯りだけが光る大師堂奥の院で、じっくりと参拝する。
お参りしている間、誰もこの奥の院に入ってこなかった。
張りつめた空気の中、聖なるもののバイブレーションが伝わってくるような場所だった。
お参りが終わり、外に出ると、突然電話が鳴った。
発信者を見ると「ハロルド フィッシャー」と出ている。
電話に出ると、ゴールデンウィークに行動共にした、フロリダのハーさん(ハロルドさん)だった。
今、マイケルさん、日本人のKさんとともに、今朝、六十五番から六十六番に移動しているとのことだった。
例によって、ハーさんは、電車とバスで先回りして、今は1人で電車(バス?)を待っているらしい。
1人だけ乗り物で移動しているので、寂しくなったのだろう。
特に何もトラブルはないと言う。
こちらが今、七十一番にいると言ったら、早いね、と驚いていた。
多分、廻りきるのは、6月の第1週ぐらいまではかかるだろう、といっていた。
こちらも、これから神社や番外のお寺を廻るかもしれないので、多分もう一度会えるよ、また会おう、とお互いの健闘祈って電話を切った。
なつかしい声だった。なぜか、ハーさんの英語は電話でもよくわかる。
一度、一緒に過ごして、気心が知れてくるとそういうものだろうか。
また会えたらいいと思った。
弥谷寺を出て、竹やぶを抜けて歩く。
次の七十二番 曼荼羅寺まで3キロちょっと。
ウシガエルがゆっくりと鳴く、沼のほとりを歩く。
街中でも、細い道もある。
ほどなく、
●七十二番 曼陀羅寺に到着。
ご本尊は大日如来。
空海の母君 玉依御前の菩提所として、また、空海の生家 佐伯家の氏寺としても知られている。
空海が唐から持ち帰ったとされる曼荼羅は現存していない。
名前のお寺の名前の由来として、お話のみが残っているそうだ。
次の七十三番 出釈迦寺に向かう途中、目を引くタクシーが停めてあった。
だれかが菅笠を屋根に置き忘れたのではない。お遍路さん御用達のタクシーだ。
後ろのトランクの上には「南無大師遍照金剛」と書いてある。
これに乗ると、注目を浴びて恥ずかしい気もするが。
途中で、朝いただいたぼたもちをいただく。
中につぶあんが入って、とてもおいしかった。
七十二番のすぐ上にある、
●七十三番 出釈迦寺に到着。
ご本尊は釈迦如来。
空海が7歳の時、もし自分が世の中の人々を救うことが出来るならば、お救いください、出来ないのならば、命は惜しくありません、と釈迦如来に祈って、断崖から身を投げた場所、と伝わっている。
その場所は出釈迦寺の奥の院、「捨身ヶ嶽禅定」と云われ、お堂が建てられている。
真魚が身を投じた時、釈迦如来が現れて、真魚を救ったという伝承が、お寺の名前「出釈迦寺」の由来とされている。
写真の山の中腹に小さく出っ張っている所が、捨身ヶ嶽禅定のお堂。
出釈迦寺に到着した際、例の僧侶とすれ違った。
参道手前のうどん屋さんで捨身ヶ嶽禅定に行く人の荷物を預かってくれると教えてくれた。
お店を通り過ぎた時も、お茶を飲んでいってください、と声をかけられていたので、参拝の後、そこでうどんをいただくことにする。
僧侶はうどんを食べて、捨身ヶ嶽に登るという。
参拝を終えて、店に向かい、醤油うどんを頼む。300円。
奥さんが店を切り盛りして、ご主人が小さなプレハブでうどんをこさえている。
ここもとてもおいしい。
お接待でおにぎりとゆで卵をもらった。これで300円?赤字にならないだろうか、と客ながら心配になる。
こころよくリュックを預かってもらい、捨身ヶ嶽へ向かう。
大体40~50分はかかるとのこと。
すぐ上に見えているので、比較的すぐ着くと思ったが、傾斜がきつく、登るのがたいへんだそうだ。
登ってみるとたしかに、きつい。写真ではなかなか分かりづらいかもしれないが、かなりの急勾配だ。
お堂の山門に着いた時、これから下りる僧侶とすれ違った。
お堂の奥には、さらに鎖場があり、行場になっていると教えてくれた。
まずは、お堂に到着。
ここでも、鐘をついた。山全体に音が響いていく。
ご本尊 釈迦如来に向けて、祈った。
ここまで来たのだから、裏を通り抜けて、行場を通って、上まで行ってみることにした。
これまで、たびたび行場をロッククライミングもどきのことをして登ってきたので、今回もその要領で登る。
普通のお遍路では、あまり岩登りまではしないだろう。
そして、捨身の聖地にたどり着いた。
すぐ前は断崖絶壁になっている。同じ場所に空海が護摩行をされたという場所も碑が建てられている。
今日は気温が高いが、ここにいると時折、爽やかな風が吹いてくる。
ここで、御歳7才の幼児が、自らの命をかけて仏に誓いを立てた。
その時、釈迦如来はどうやって出現されたのだろうか。
実際に奇瑞の現象が起こったのか?
それとも真魚の心の中に、釈迦如来の智慧の光が差し込んだのだろうか。
何にしろ、子供の純真な決心を変えるには、よほどのことが起こらなければ、納得されなかっただろう。
心の中にしろ、目に見える現象にしろ、大きな奇跡が起こったことには変わりないだろう。
二十一番 太龍寺の捨身ヶ嶽と同じく、この捨身ヶ嶽禅定でも瞑想をさせていただく。
ごつごつした岩なので、良い姿勢は取れない。なんとか半跏府座を組んで20分ほど瞑想する。
後半とても集中できた。
気温も暑いのだが、これほど集中して瞑想できたのは自宅の部屋でもあまりなかっただろう。
この聖地に参拝させていただいたことを感謝し、鎖場を降りる。
捨身ヶ嶽にいる1時間くらいの間、全く人は来なかった。
いつも聖地を訪れる時は、誰にも会わなくなるか、キーパーソンとなる人と出会うということが度々起きる。
これも何かのシンクロのような気がしてならない。
十九番恩心寺や、高野山の麓にある九度山にも、空海が母君を大切にされた逸話が残っているが、なぜ空海が母君を大変大切にされたのかわかったような気がする。
7歳の幼児が、自らの命をかけて断崖絶壁から飛び降りになると言う事は、母親にしてみれば考えられないほどの大変な事態だ。
どんなにか心配し、心を痛めたことだろう。
空海はそれを身に染みて感じ、その後、母君を大切にされたのではないだろうか。
やはり大聖者といっても、人の子としての気持ちは変わらない、ということだ。
時間がかかってしまったが、ようやく行場を下りて、出釈迦寺の納経所でご宝印をいただく。
リュックを預かっていただいた店に寄って、お接待でお茶をいただきながら、さっき食べたうどんが全国発送できるというので、知り合いに送ることにした。
その際も、焼きたてのミニパンや手作りティッシュ入れなど、たくさんいただいた。
本当に大丈夫?と言う位にいろいろしていただいた。
楽しそうに仕事をされているご夫婦だ。
昨日偶然、香川のテレビ局で元サッカー選手の前園真聖さんが自転車でお遍路している番組を見たが、この店にもきたそうだ。
出釈迦寺だけで帰る予定だったが、この奥さんが勧めて、捨身ヶ嶽禅定にまで行くことになったそうだ。
その時の模様は今年9月ぐらいに放映されるとの事。
千葉では見れないが、YouTubeで放映後に見れるそうなので、後で見せてもらうことにする。
午後3時を回ってしまったが、七十四番 甲山寺に向かう。
ここから30分ほどの所だ。
所々に小麦が実っている。
豊富にとれる原料があって、食べ方もいろいろ工夫して、讃岐うどんがおいしくなっていったのだろう。
●七十四番 甲山寺に到着。
甲山寺は、満濃池の修築の勅命を天皇より受けた空海が、この寺を拠点に活動し、難工事の末、3カ月で完成させたと云われている。
いわば空海の、土木工事系の才能が発揮されたお寺だ。
ご本尊は薬師如来。
工事成功のために御自ら像を彫って安置された。
土木工事系の言い伝えがあるお寺らしく、ちょうど境内の改修工事をやっていた。
クレーン車も境内に入って工事を行っていた。
これも一つのシンクロか?
七十五番 善通寺へ急ぐ。
お寺の空いてる時間に間に合うか、微妙な感じだ。
犬の散歩で歩いていたおじさんが、親切に道案内をしてくれた。
ただ、何度も何度も教えてくれるのだが、なかなか話が終わらないので、時間を気にして焦ってしまった。
午後4時過ぎに、
●七十五番 善通寺に到着。
ここは云わずと知れた、真言宗善通寺派の総本山。
ものすごく広い境内には、本堂の大伽藍、五重塔はじめ、いろいろな伽藍が建っている。
通りを挟んで、本堂より大きな大師堂がある。ここは、空海生誕の地とされている。
大師堂の下には、戒壇めぐり、と言って、真っ暗な空間を歩くコースがあるが、時間がおそく入れなかった。
まだ宿も予約していなかったので、この善通寺の宿坊に泊まり、明日の朝、お勤めの後の戒壇めぐりに参加することにする。
宿坊では、入ったのがおそかったため、素泊まりになり、食事を近くのスーパーに買いに行った。
善通寺の町は、古い古民家も多く、落ち着いた佇まいで、歩いていて楽しい。
ふと見ると、イスラム教のモスクのような建物があった。本当にモスクだろうか?
明日は、朝5時30分から、お勤めと戒壇めぐりになる。
明日はルートを外れて金毘羅宮に参拝した後、また札所めぐりを続けるつもりだ。