〈帝釈天の源ちゃん〉が大先輩?
私は以前、お寺に勤めていました。
といっても、お坊さんではありません。
時には、お坊さんもどきの手伝いをすることもありましたが。
(『門前のおじさん習わぬ経を読む』といったところでしょうか、、)
いろいろある仕事の中で、窓口の受付も行いました。
お寺では、お守り、お札、火に焚いて祈願する木、などいろいろなもの(修法物と呼びます)を購入することができます。
購入された方は、その修法物にさまざまな願いごとを託します。
オーソドックスなものは、たとえば、
商売繁盛、受験合格、病気平癒、、、など
えらいなあ、と感心させられたのは、
世界平和や○○地域安穏、、、など、自分以外の幸せを祈る方も意外といらっしゃいましたね。
そして、どんな願いにも通じるオールマイティなのものと言えば、
やはり『心願成就』 でしょう。
神社仏閣で、もっともポピュラーなねがいごと、といえるかもしれません。
迷ったときには「心願成就」を、みたいな感覚もありました。
「心願成就」のかくれた意味は?
窓口受付の他、参詣者の相談にも応じていたので、願いごとに隠された気持ちを知る機会が、時々ありました。
じつは「ねがいごとを人に見られたくない」という方が「心願成就」をよく申し込まれます。
「心願成就」に、秘めた想いを込めるのですね。
そういう方は、「自分本位なお願いごとをしている」、「(立派な願いに比べて)どこか胸を張れない」、と思っている節が、しばしば見受けられました。
お寺の人間が、願いごとにランクをつけることはありません。
ただ、「世界平和」という祈願に「おっ」と感心することはあっても、「心願成就」と聞いて「えらいなあ」と思うことは、確かにありませんでした。
でも、今、あらためて考えると、じつはこの「心願成就」にこそ、深い意味があると思うのです。
「尊いねがいごと」とは
どんな願いが一番尊いのか?という問いに、答えはありません。
でも、ご本人にとって価値のある、という意味では、
「心願成就」はとても大切だと思います。
たとえば、「世界平和」はあまりにスケールが大きいので「建て前」になってしまうこともあります。言ってみれば軽い気持ちでも祈れます。(世界平和さん、引き合いに出してゴメンナサイ。)
でも、「心願成就」を祈る時、だれもが真剣になります。
想いが切なるものであるほど、気持ちが込もります。
そこに「心願成就」の本質があると思うのです。
その願いが、どんなに愚かで、自分勝手にみえても、その想いに向き合わずして、奥底にある無垢な本心に出会うことはできないからです。
本心というものは、必ず自覚しているとはかぎりません。
向き合うのがこわくて無意識に避けるうちに、記憶の中に埋もれてしまうことが多いのです。
その忘れている本心にたどりつく大事な手がかりが、「心願成就」の中にあるのではないでしょうか。
心のいちばん大切な部分とつながっている、とさえ思うのです。
仏の道は心理学を超える、、
ちょっとここから「ウンチク」はじめます。
私が影響を受けた、ある高名な阿闍梨さま(密教の高僧位)が書かれた本の中に、
「密教の法の秘密は、深層意識の使い方にある」ということが書かれています。
かみくだいて言えば、「祈りの力で心をあやつると奇蹟が起きる」ということでしょうか。
「深い祈りは心の奥底に光を当てる」という意味にもとれます。
また仏典には、人の心を読み取る「他人通」、遠く離れた場所の音を聞く「天耳通」など、修行によって特殊な力が得られることが記されています。
一方、「トランスパーソナル心理学」という心理学の分野では、個人の意識は宇宙全体の意識とつながっている、という前提で研究がすすめられています。
仏教しかり、心理学もしかり、心の奥底にはものすごい可能性が潜んでいる、と主張しています。
「心願成就」に秘められた本心を追及していくうちに、仏教や心理学が示す深い世界につながる、と思うのは、飛躍しすぎでしょうか。
でも、私は、そういう気がしてならないのです!
ハアハアハア、、💦
すみません、思わず、熱が入ってしまいました。
大先輩の源さんに、「お前、なにややこしいことしゃべってんねん!」とドヤされそうです。
(?の方は、映画「男はつらいよ」をごらんください)
おわり