『天地遍路』のブログ

讃岐路を行く⑥ 〔ゴールはそこまで〕

投稿日:2018年5月29日 更新日:

(87番 長尾寺 → 88番 大窪寺)

もくもく、という感じの雲が出ていた。

四国地方は昨日、梅雨入りをしたらしい。

 

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7時25分出発。
昨日お参りした志度寺の前を一礼して通り過ぎる。

今日はけっこう蒸し暑くなりそうだ。

 

例によって、朝の慌ただしい通勤通学の時間帯の大通りを歩く。

 

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今日で最後か…。

 

今まで歩いた日数はあまり気にしていなかったが、数えてみると出発してから42日目ということになる。

いろいろ寄り道したわりには、結構早く歩いてしまった。

 

やせ細った肩にリュックが食い込むのも、今日が最後だと思えば、痛い、というよりも名残惜しく感じる。

 

今日ばかりは、急いでしまうとすぐに終わってしまうので、ついゆっくり歩いてしまう。

本当は毎日それ位の気持ちでよかったのかもしれない。

 

いくら自由になっても、自分の心癖や習慣から離れるのはいかに難しいことか、身に染みてわかった。

 

 

今日は、いろいろと頭に浮かんでくる。

 

自分が昔のことを知っているわけではないが、お遍路に出る人の動機は全く変わってしまったのかもしれない。

66番雲辺寺の手前の宿のご主人が言っていたが、

昔は四国に住む人にとって、お遍路さんは、重荷を背負っていたり、行くところがなく、お遍路を廻るしかないと言う境遇の人が多く、どちらかと言うとかわいそうな人たち、というイメージがあったらしい。

それが今はどうだ。仕事をリタイヤして悠々自適の人や、日本の文化に憧れてチャレンジスピリットでお遍路をしに来る外国人、仕事の休みを利用して数日で区切り打ちをして、また仕事に戻っていく人など。

本当に苦しくて切羽詰まってお遍路に出た人が、かえって肩身が狭くなる思いを抱いてしまうのではないだろうか?

ただ、表向き悩みがないように見えても、お遍路をしている全ての人の心には、必ず何か満たされないもの、苦しみの種があって、それを良くしたいと言う気持ちがあるように感じたのも事実だ。

お大師様は、どんな人でも、どういう動機で来ても、全てを受け入れる。

そして廻っているうちにお大師様の加護を感じてくる。

そうやって、お大師様が仕掛けたこのお遍路の輪の中に引き込まれていく。

 

 

途中、八十七番奥の院 日切り不動尊があったのでお参りしていく。境内に藤棚があった。

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いくら考えても、今日でゴール、ということがなぜかピンとこない。

 

人間は習慣の動物だ。

辛い事でも、一度習慣になってしまえば、それをやらなければ落ち着かなくなる。

今回の遍路旅の生活も、1ヵ月ちょっとで体に毎日歩く習慣が身についたような気がする。

肉体的にはハードなので、つらいと思うこともあるが、朝、歩き出すと、どこかほっとする感覚もある。

 

これから家に帰ってからも、考えごとをする時は歩きながら考えるか、と思ってしまう。

 

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そんなことを考えているうちに、前方に山並みが見えてきた。
最後の山越えである女体山はどれだろう?

 

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9時30分ごろ、

●八十七番 長尾寺に到着。

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ご本尊は聖観音。

ここは静御前が剃髪したお寺だそうだ。

長尾天神宮にも参拝する。

境内は広場のようだ。団体の参拝者がバスで入れ替わり来ていた。

 

徳島の池田で同じ宿だったポーランドの女性が、日本人の団体と記念撮影をしていた。

同じ宿に泊まった人たちだろうか?ゴールを直前にして、感極まっている様子だった。

八十八番からバスに乗り、一番霊仙寺に戻って、次の日に高野山に行くという。

また会いましょう。と言って別れた。

この方とも何回も会った。会う人は本当に何回も会うものだ。

 

 

午前10時、いよいよ最後の八十八番 大窪寺に向かって歩き始める。

およそ12キロ。

女体山という776メートルの山を越える。

 

あと12キロ。歩きながら、何を考えようか?

今までの遍路道での出来事を振り返るか?

 

それともこれからの生き方を考えるか?

 

考えることを考える必要は無い。まだ12キロ大きな峠が残っている。それに集中して淡々と歩けばいい。

 

 

途中の標識。いくつもルートがある。

 

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何度も言うが、やはり今日で遍路が終わるのはとても寂しい。

 

田んぼのあぜ道をひたすら歩くことも、

遠くからじっと見ている白鷺と見つめあうことも、

古い町並みに心癒されるのも、お遍路の道すがらでだからこそできる体験だ。

 

街に帰ってからは、こんな贅沢な時間を過ごすことはできないだろう。

 

「贅沢」といえば、遍路旅の初日に休憩で座っていた時、誰かが、
「お遍路旅こそ贅沢なものはないで。靴擦れで足が痛い、ということだって、とても贅沢なことなんや」と言っていた。
その時は本当に靴擦れでとても痛かったこともあり、よく意味がわからなかったのだが、今はその意味がわかるような気がする。
足が痛いからといって、仕事ができなくなるわけでもない。
日常生活に差し支えがあるわけでもない。
要するに味わなくてもいい痛みを、あえてお金を払って旅に出て体験しているのだ。
これほど「贅沢」なことはない。

 

不意に、右膝が少し痛くなってきた。

あまり急いで終わるな、と体が言っているのかもしれない。

 

このブログでも、いろいろ言葉を費やしたが、

この旅で何を得たか?、という結論は言葉にしようとしても、何も浮かばない。

 

なぜだろう。

今まで出来なかったが、この旅できるようになったこともある。

今まで抱いていた先入観なり、固定観念が変わったこともある。

 

といっても何かまったく新しい発見があった、ということではない。

出っ張っていたところが引っ込み、へこんでいて不足していたところが満たされた、と表現すべきだろうか?

 

旅の収穫は後になって、じわっと感じてくるものなのだろう。

 

 

途中、噂に聞いていたお遍路交流サロンに立ち寄る。

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資料館があり、そこには四国遍路の歴史にまつわるいろいろな展示があった。

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平安時代から、僧侶や修験者が修行として空海にまつわる聖地を巡っていたのが発端らしい。

その後、中世になって庶民が四国を遍路する記録があり、今の形の八十八ヶ所の遍路は江戸時代になって確立されたようだ。

空海が修行された聖地を巡る、という視点は、あながち外れていなかったのかもしれない。

 

瀬戸内寂聴さんも四国に住んでいる。

 

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ここで、遍路結願の証明書と、遍路大使バッジ、というものを無料で発行してくれる。

記念にと、申し込んでその場で発行してもらえた。

サロンを出発する時、「お四国病にならないでね」と言われた。
なりそうな雰囲気に見えたのだろうか?

 

近くの道の駅で昼食をとり、

12時に大窪寺に向けて出発。

 

栗栖神社を経由して、女体山へ向かう。

サロンの人によると3時間半の道のりだという。

 

出発してまもなく、逆打ちの人とすれ違った。逆打ちの場合は今日始まったばかりだ。

いつもならば峠の上りはこちらなので、がんばってくださいと、声をかけられるところだが、今日に至ってはこちらから「頑張ってください」と声をかけた。

逆打ちの人の服装がこちらと全く同じ色の組み合わせで、それに気づいたように、少し気恥ずかしい感じで挨拶を交わした。
お互い同士で、自分の姿を見出したのだろうか。顔はあまり似ていなかったが。

 

車道からそれて山の道入っていく。渓流沿いに道が続いている。

 

讃岐に入ってから、渓流と言うものにあまり出会っていなかった。

今までの四国各地の渓流に比べて、水は多くはないが、でも透き通っている。

讃岐では、山からの水はとても貴重なのだろう。

 

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思わず、沢の水に触れた。

 

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大窪寺まで、あと4キロちょっとの標識がある。

残りのキロ数が、そのまま、この旅の終わりを告げる距離でもあるのだ。

 

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山奥に田んぼがあるのも、水の流れがあるからこそ。

 

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最後の遍路道が讃岐の渓流沿いにあるということは、昔のお遍路さんにとっても、最高の贈り物だったのではないだろうか。

 

小雨が少しパラついたようだ。

葉っぱが少し濡れていた。

 

 

ついに最後の難所に差し掛かる。

ここから約900メートルの間、岩場や綱渡りでいくような場所があるという。

 

最後は岩の行場のようなところが待っていた。

 

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ついに、女体山の山頂に到着。

 

祠があり、参拝する。

 

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その横からは、遥か讃岐平野を見渡すことができる。

海岸沿いの山々が平野を囲んでいる。

その外には広々とした瀬戸内海とそこに浮かぶ島々。

 

手前には平たく広がっている讃岐平野。

 

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これで讃岐平野とはさよならだ。

 

後は1.2キロ。大窪寺まで山道を下るのみ。

女体山山頂は2時ちょうど着だった。

 

 

下りの道は心地よい風が吹いていた。登りでは、風は全くなかったのに、山頂を境に風が吹きはじめた。

 

 

あと数百メートル、数百メートルで1,200キロ余りの歩きが終わる。

 

一歩ずつ、間隔の広い階段を下っていく。

42日前から歩き続けている一歩一歩が続いて、今ここにつながっている。

 

そういえば、今日、お寺以外で、道すがらで会ったのは、逆打ちの人1人だけだ。

最終ゴールなので、さぞかしたくさんの歩き遍路たちが集まるだろうと思ったが、全く会わない。

 

最後までお大師様のコーディネートしていただいている。

 

今日は人との関係よりも、自分の内面を深く見つめろ、と言うことなのかもしれない。

 

木々の隙間から、寺の境内が見えてきた。

 

午後2時45分、

●八十八番札所 大窪寺に到着。

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ついに到着。

本堂の後ろに塔が見え、その後ろには岩山が聳えている。最後の札所にふさわしい素晴らしいお寺だ。
ご本尊は薬師如来。

 

行基菩薩が草庵を作ったのが始まりとされている。その後、空海が唐から戻られた後、この付近の洞窟で求聞持法を修し、唐より持ち帰った錫杖を寺に納めたそうだ。

 

大窪寺に着いて5分ぐらいすると、数日前に会ったフランスの男性と、善通寺で会ったヨーロッパ系の女性がやってきた。

同じルートで登って来たという。

やはりお大師様のコーディネイトだ。

 

お寺に到着しただけで札所巡りが完結したわけではない。最後にお寺に参拝して完結するのだ。

 

いつもと変わらぬ参拝、勤行をさせていただいた。

加えて、今まで無事に廻らせていただいけたことを感謝した。

 

フランスの彼はここからまた一番霊山寺へ戻るという。もう1人の彼女もそのようだ。

 

 

境内には、ここで納められた金剛杖があった。年一度の柴燈護摩で焚き上げるらしい。

 

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境内の一角に、個人の方が保ち続けてきた、広島の原爆の火が、保たれていた。

 

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空海の幼年「真魚」の像。

 

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手と一緒に、杖も日焼けしたようだ。

 

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ずっと持ち続けたさんや袋。汗?で金具に錆も出てきていた。

 

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大窪寺を後にする。

 

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今日の宿は、大窪寺から数十メートル程の所だ。

 

国を聞かなかったが外国人の男性と、昨日同泊した年配の男性、それに、二十六番の宿坊で一緒だった19歳のカナダの女の子が遅れて到着した。

カナダの女の子も一番まで戻ると言う。

年配の男性も、外国人の男性も、今日会った人は皆一番まで戻ると言うことだ。

 

つられて一番まで歩いて戻ろうか、とも考えたが、元来の結願は八十八番の参拝で叶うとされているので、あまり周りに左右されず、速やかに明日高野山へ向かうことに決める。

 

宿では、結願のお祝いにお赤飯を炊いてくれた。いつも結願された人にお赤飯を振舞ってくれているそうだ。

明日は地元のバスがふもとの停留所から7時に出る。

そこまで歩かなければいけないと思っていたが、宿の車で送ってくれると言う。6キロもあるので大助かりだ。

 

 

といわけで、遍路歩きは終わったが、まだ本当の行満ではない。

 

この旅は、高野山への御礼参りで完結となる。

 

 

そろそろ、眠気の限界だ。

 

 

旅のウンチクは明日、あさってに、くわしく書くことにしよう。

 

とりあえず、遍路歩きは、無事終了しました。

しかし、まだ高野山まで旅は続くので、引き続き更新します。

 

 

とりあえずは、今日まで、ご支援、励まし、誠にありがとうございました。

 

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《讃岐の国 涅槃門について考える》

他の3つの国に比べて距離が短かったせいか、涅槃門は日程的にすぐ終わってしまった。

そんな中で、涅槃門に2つの意味を感じた。

1つは、

「今までよくがんばった。それでは私の生涯を辿る上で大切な場所を見せてあげよう」というお大師様からのプレゼント。

ご生誕の地、幼い時に奇瑞を顕した地、遊び、勉学に励んだ地など所縁の地、大本山根本道場の壮大な伽藍など、お大師様の慈悲にすがろうと一生懸命歩いてきた人々にとっては、まさに憧れの巡拝地だったと思う。

まさに遍路をしながら涅槃に近づき、極楽浄土を歩む気持ちだったのではないか。

もう1つは、

「今までよくがんばった。そして、遍路を終えて、これからすすむ道は自分自身で決めるのだ。その気になれば、人は思い描く通りに何にでもなれる」というメッセージが含まれているのではないだろうか。

「自分の道を決めるには、仏にも私にも依らずに、自ら決意することだ」と、空海はおっしゃっているような気がする。

お大師様のご加護を戴くために遍路をする人は多い。

一方、仏教はもともと、ご利益や慈悲にすがるものではなく、自分の中の「仏の種」を修行によって大きく膨らましていくものである、とも云われている。

お遍路の「おかげ」というのは、お大師様が夢枕に立ったり、不思議な奇跡が起きたり、という類いのことだけではない。(実際、命を救われた、とか病気が治ったとかいう実話をいくつか聞いた)

それよりも、苦難を乗り越えて遍路を歩む過程で、自分の中に眠っていた可能性を見つけることができる。

これが一番の宝物ではないだろうか。

 

空海はみずから、人間の可能性を追求し、自身が仏になる、という道を探求された。

その道に我々が少しでも近づこうとし、遥かなる目標として空海の姿を追っていくと、さら多くの導きを得ることができるのではないだろうか。

もしかしたら、我々も空海と同じような境地になれる可能性を秘めているかもしれない。

 

以上 涅槃門を通じて感じた。

 

あなたとお会いできることを楽しみにしています。

…*…*…*…*…*…*…*…*…*…*…*…*…*…*…*…*…

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